飛鳥時代(593〜710)には、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として隋に送り、中 国との国交を開き、留学生や僧侶に中国大陸の文化や政治制度を学ばせた。聖 徳太子は、また、朝鮮・百済から伝わった仏教の教えを広めるため、大阪に四 天王寺、奈良に法隆寺を建立、朝鮮半島からの使節を手厚くもてなした。当時 の仏像や工芸品には中国や朝鮮からの渡来人によってつくられたものも多い。
中国が隋から唐の時代になると、引き続いて送られた遣唐使は、唐の「中央集 権的な統治」という思考を日本にもたらし、天皇が政治を司る朝廷の基礎がで き上がった。
奈良時代(710〜793)には、聖武天皇が、平和を祈願、9年の歳月をかけて大 仏を奉納する東大寺を完成させた。
平安時代(794〜1185)になると、唐で仏教を学んだ二人の高僧が相次いで帰 国した。最澄(伝教大師)は比叡山に延暦寺を建て天台宗を広め、空海(弘 法大師)は高野山の金剛峯寺を拠点に真言宗の布教に努めた。
12世紀の末には、平清盛が当時福原と呼ばれた神戸を舞台に、中国の宋との間 で日宋貿易を始め、宋からは高級な絹織物、陶磁器、香料、宋銭を輸入し、ま た我が国からは、砂金、水銀、刀剣等を輸出した。
15世紀の始めには足利義満が、当時の明との間で日明貿易を始めた。当時、堺 は貿易により富を蓄え自治都市として栄え、16世紀中頃、堺を訪れたポルトガ ルの宣教師ルイス・フロイスは、その栄華を、当時ヨーロッパの国際貿易都市 として殷賑を極めたベニスに比している。
16世紀後半の戦国時代に大阪を拠点として全国を統一した豊臣秀吉は、大名や 大商人に朱印状を与えて中国、東南アジアなどとの朱印船貿易を奨励し、日本 からは金、銀、銅などが輸出され、生糸や絹織物などが輸入された。東南アジ アの港には日本商人が進出、あちこちに日本人町が誕生した。堺はそのころの 東南アジア貿易の拠点として、時の為政者の庇護を受けて大いに繁栄した。
江戸時代(1600〜1868)になると、大阪は「天下の台所」と呼ばれ、経済の中 心地として栄え、東西の学問・文化を研究する拠点になった。長い鎖国が終わ ると、神戸には19世紀後半開港と同時に外国人のための居留地が設けられ、現 在でも山の手の異人館に当時の繁栄を偲ぶことができる。このように、関西は 各時代を通じて国際交流の門戸であった。