■大和から難波京へ

日本は小国分立の時代を経て、3世紀ごろから国家の統一がはじまり、中心的 な存在として大和朝廷が誕生する。その国家統一には、渡来人の新技術が大き な力を持っていた。そして、技術だけではなく仏教などの思想も伝来し、仏教 発祥の地であるインド仏教とは違った日本独自の仏教文化が発展する。

舒明天皇が奈良・香具山に登って詠んだという「万葉集」の「大和には 群山 あれどとりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立 ち 海原は 鴎立ち立ち うまし国ぞ 蜻蛉島大和の国は」という歌のよう に、この間、政治の中心は主に大和地方(奈良・飛鳥地方)に置かれていた。 例外としては、645年の難波宮(大阪)遷都や、667年の近江(滋賀・大津)遷 都などがあげられる。

大阪城の南側に宮殿の遺跡、難波宮跡が遺る1,350年前の都市、難波京への遷 都は、日本の古代国家の基礎を築いた大化の改新という政治改革と歩調を合わ せて行われた。難波に遷都された当時、すでに難波津という国際港があり、ア ジア各地との交流の窓口として大きな役割を果してきた。当時の栄華を偲ばせ る八角殿、中央門にあたる朱雀門、大極殿などの遺構が発見されている。

大津付近の琵琶湖のほとりの近江京への遷都は、唐や新羅との戦いに敗れたた め、水利を活用して湖国での防衛を考えて計画されたと推測されている。この ように、古代、関西は政治の中心であった。